昭和42年11月21日  朝のご理解
                                  

 せっかく信心をさして頂くのであるなら、信心をさせて頂くということにふさわしい
おかげを頂きたいもんだと。なるほどあっちは一家中あげて信心しなさるが、なるほど
違うところがある。と見た目とでも申しましょうか、さまざまな形のうえに、現れてくるおかげ、またはその人の人物といったようなものがそういうふうな言い方というかね、されるくらいな信心を頂きたい。そこにあるひとつの派手なとか、キザなとかといったようなものがもちろんあってはならない。その人の信心にふさわしいおかげ。信心をいただいておるにふさわしい人柄。そういうものが頂かしてもらう。何十年信心しとりましてもただそういうふうなおかげを頂きたい、おかげを頂きたいと言うだけではおかげを受けられない。
最近ご大祭があっち、こっちの教会でございますから、あちらこちらの教会を回らして頂いてから感じるんですけれども、なるほどやっぱこちらの先生のご信心が、こういう所にこういうふうに現れておるなとはっきり、もうはっきり現れております。ねですから、なるほどーとこう合点がいくのです。ですからそれが言わば反対なことにもなってくるのです。ねえ、「見かけはあーだけれど」「口ではああ言いよんなさるけど」実際のものは伴うていないと感じなところもある。それとこれと伴う信心。これはまだ、こことしてもでけてもいないことですから言えないのですけども、昨日、稲数の高山さん親子がお願いにきてみえられて、高山しげきさん、ねえあのおじいさん、もう75になられる。あんな若々しいしとられるけれども75になられる。その急にですねチュウブが出た。半身不随、特に下半身が麻痺して感覚が無くなってしまった。それでもまあ頭のほうはおかげ頂いて、お話も出来るしですね、夜もご承知のようになかなか気丈な人ですから、大、小便を取ってもらったりするのが大変、まあいやらしいんですけれども、仕方がないわけです。そして、自分でも言われるのにほんとに、あの人はあれでも昔のこのえ兵ですかね、自衛隊に行ってからこのかたというものはその、病院に、お医者さんに診てもらったと言ったようなですね病気をしたことがない、何十年間である。  初めてこういう病気をして、「もういっぺんな立ち上がってから、おかげいただかんならん」とも言うておられるそうです。あーお願いにみえたわけでございますが。ふむ それとこれとはまた別でけれども、この庭のことでございます、庭はこれはもう私が一生一代の大きな御用として自分がおかげを受けたいと言うので高山さんにまあ言うなら任せてある訳です。ところがもうその年もとっておられますし、職人も揃いませんし、ま こちらが積極的に出ないもんですから、庭がそのまま、まあちょっと形だけはでけておると言うても、庭というのがでけていないのです。
それでそのこれだけ立派な御広前 お造営が出来ておるのでございますから、ここの御広前にふさわしい庭がほしいと思うのは私ではなくて実は神様なんだ。こういう立派なたとえば御広前を建立しようと言うたのも神様なら、思いたたれたもの神様なら、作られたのも神様なら、ですからさまざまにま神様のお働きによってでけていくのでございますから、家が出来、内部が出来、そして外部がでけ、またその外部であるところのお庭がでけ、ですからやはりそこにふさわしいものでなからなければならないし、また神様もそのふさわしいおかげをいただかしてくださろうとしておることは間違いないという感じがです、あたくしは実はそれとこれとは違うけどもそれを感じたんです。「あっ、高山さんが倒れなさった」というのもそのーある業者のかたが、とにかく合楽の金光様のお庭は自分がおかげ頂きたい。もうやはりここの庭はどんなに安く見積もっても300万はかけなければならんと言われるですね。ほんとの庭をされる方が言われる、まあ言うなら、こちらとしてはまーだそこまで手が届かんからではありますけれども、高山さんちに任せてございますからあちらが出来るだけぼつぼつなさっておるけれども、ところがもう ま そういうことが出来なくなられたような感じです ね。ちゅうぶになられましたから。ですから高山さんのそういうような真心がここに今のような形に表れておるけれども、神様はもっと言うならば、あかぬけのしたというか、もっとこのお広前にふさわしい庭を造りたいという願いを神様が持っておられる。そしてそれが出来上がったときにです、みんながどう言うかということ。「あっちの先生の信心にふさわしい御広前がでけた」と「あっちの先生の信心にふさわしいお庭がでけて」「あちらの先生の信心にふさわしい信者がたくさん育っていくと」いうことになるわけです。ですからいよいよここでいうならば私は今日、皆さんに申しておりますように、せっかく信心をさせていただくならば、その信心にふさわしいもの、 それを身にもつけていきたい、形の上においても表していきたい。ね それがなるほど神様じゃなー、なるほど金光様のご信心はありがたいすばらしいものだなということを表わしていくことになる。そこにです、周囲の人がついてこなければおられないもの、いうならそういうひとつの魅力というものが出来てくるわけなんです。どうでしょうねーそれとは反対に、かねがね信心はしよるけれどもそれにふさわしいなにものも現れてこない、人物も、人柄も差ほどでもないと。いやむしろあのひとは信心はしよってけれどもといったようなものであっては神様を表すこと、形に頂くおかげも表すこともできない。そこで、まここで思うことはです、そんなお広前はでけた、からすぐお庭もそれにふさわしいのが出来る じゃなくてそこがひとつのそういう期間があるのです。ね 高山さんば病気にさしてなんてそういうなことじゃないですけれども、それはそれなりに受けてです、いよいよもってすばらしい、たとえばこれはここの信者一同だってですね、高山さんをおいてほかに庭師を入れるわけにはいかないです。
たとえ他から言うてもらっておっても、それは信心じゃない人たちですから。すばらしいお広前、金光様がでけなさった、あれにふさわしい、あれにぴったりくるような庭を自分かたならばできると。ま 現在日本一を自負しておられるたとえば内山農園ですけどね、そう言うておられるなら、えっ 内山園芸ですか、あちらは私の北京時代の大変、心安くしていただいておった方の兄弟でもありましてね、そのそういう話がこの具体化しそうであってなかなか具体化しなかったんです。ここのご信者さんを通してですね、お金なんかもうそげんまあ言うならどうでもよいというわけでもないけれどもまあいつでもよいというようなとにかくさせてもらいたい、金光様の庭だけはいっちょ自分が腰、肝を入れてあげたいというわけですから、願ったり叶ったりですけども、こちらが積極的に言えばあのおかげがいただけるでしょうけれども、私が積極的に言うのじゃなくてから、とにかく成り行きを大事にしながら頂いていこうと言う生き方ですから、その成り行きのなかにです、ひとつそうした高山さんのちゅうぶという病気がねあるわけです。それとこれと混同してはなりませんけれどもね。なら 金光様が庭つくりなさったら、高山さんが具合が悪くなるというようなものでもないのです。ね もちろん高山さんももういっぺんおかげをうけられて再起しなければなりません。ね けどもなんというてもやがて80ちかくなられておるのでございますから、これは高山さんとしても、にもこりをつませず、皆としても合点がいくようなありかたでなるほど庭がでける。そこには2年かかるやら3年かかるやらわかりませんけれどもその間にです、そういう神様の働きを頂いておるということを私共が感じられる信心、ね皆さんが信心、もう椛目にお参りをするようになって、合楽をとおしておかげをいただくようになって10年になる、15年になる。けれどもその形においてはここの庭じゃないけどでけとらん。でけとらんからといって卑屈になることもなーんもいらん。問題はそういう働きの中にあるということが感じられとればいいのである。ね 為にはまず人柄であり人物がですね、私は出来なきゃならんとこう思うのです。 
昨日、西原教会のご大祭に、お説教が南久留米の足立先生という先生であった。夕べもあたくし、そのがらをほんとに感銘深くいただきましたから、私もそれを2度も聞いてもらったんですけども、16の時、胸の病気を患らわれた、そしてさまざまに迷うしこ迷うて、金光様のご信心を頂かれたかたなのです。そん時に一番初めにそのお取次ぎを願われたときに先生から頂かれたご理解がです、「足立さん、腹をたててはいけません、不足を言うちゃあおかげにゃならん」というご理解であった。もうどれだけ、それこそ耳にたこがでけるほどね 聞いた話でございますけれども、なるほどたとえば病気が腹をたてておかげがいただかれるなら、不足を言うておかげが受けられるならです、病気だけのことじゃあない、もう全事百般すべてさまざみんなのおかげがそうだということなんです。商売が繁盛するとか、  ?   になるとかです、もさまざまなもう願いという願いがですね、その元になるものはこれだ、これはもう宇宙の大真理だ。人間としてほんとに幸せになりたいならばここんとこのおかげを頂かなければ絶対おかげはうけられないというほどの大真理である。いわゆる本当のことなのだというわけなんです。ところがそれに反して腹がたつ、不足が出る、ね だからそれにいよいよ本気に取り組ましていただいて腹のたたんで済む信心をさしてもらわねばならん、不平、不足を言わんで済む、いやー言うちゃばからしかというだけの本当なものを頂かなければならん。これはほんとにもう絶対なんですよ、絶対のことなんです。腹をたてる、心のなかでいつもぶつぶつぶつぶつ不足を言うておる。これでは絶対おかげが頂けるはずがないです。ね だからだれだってこれはだれかれに限らず腹もたちゃあ不足も言うて来たけど信心させて頂くようになったらその腹たちがいよいよ少なくなった、不平不足を言わんですむようになった、いやその腹たちを 腹をたてるということはこのくらい馬鹿らしい、損なことはないことがわかっていよいよ腹たたんで済むようになった。というように信心の徳をですね 積んでいかなければなりませんのです。 昨日、おととい、先おとといですね、ある方が参ってみえて、最近参ってくる方、それこそ腹が立って、腹が立ってたまらんで参って来た。どこへもっていきようがないから先生のところに聞いてもらうと参ってみえたんですね。 話を聞くとその同業者のあんくらいな奴、あんくらいな奴からこういう仕打ちを受けた、それが腹が立って、腹が立ってたまらん、それを聞いたら、今度は家内も腹が立ってきた、息子も腹ん立ってきた、そげなこつ言うたなら 敵討ちせんなならんという訳なんです。しかもあのくらいな奴からそう言われた事が腹がたって腹が立ってたまらん訳なんです。ね だから 結局、昨日の私の頂いてきた今日のことから言うとそれではおかげは受けられないことが分かるのです。それとこれとわたくしは思い合わせて、 そん時、私が神様にその事をお願いさして頂きました。そしたら、あの五月の節句に使う菖蒲というのがありますねー、菖蒲を頂くんです。はーこの人はそのあんくらいな奴と思うておる人と勝負をしようということなんです。そうじゃったらあんたもおんなじじゃないかということなんです、あんくらいな奴と言いよるけれども、んなら むこうもあんくらいな奴と思うとるから、そういうこと結果になったんだ。それで勝負しておる、ねだから、問題はあなたがあんくらいな奴、たとえば子供と喧嘩したってつまらないようにですね、あんたがもちっと向上する以外にないじゃないですか、あんたが腹がたっておると言うけれども、あんたそれと勝負しておる、それと喧嘩しておる、これじゃあんたも同類じゃないですか・・・と。そしたらもうそれこそ、心はさめるのでしょうねあれは。はーほんなこつ先生もう、ほんとにそれこそ長い長い間ご祈念をして帰られてからです
ぷりぷり言うてからです、ほんとに今日はお参りさせて頂いてよかった。私はもう、私どころじゃない、私一家中のものが、その人とですね、それこそ対決しようとした、勝負しょうとした。もうほんとにおかげを頂いてよかったと言うて帰られたんですけどもです。私どもの日常生活の上においても、腹のたつ問題をよくよく吟味さして頂いたらです、こちらがちょっと向上する、こちらがちょっと大きくなったらです、そのことなんかは問題じゃなくなってくる。ね もうはああたしは「子供の言うたことにこげんある」と言うて馬鹿らしゅうなってくるようにですよ。いわゆる私自身が私の人物そのものが大きゅうもなりゃ豊かにもなり、限りなく美しゅうなってこなければです、もう腹がたつ、いや不足、不平を心の中にぶつぶつ言うたり、言葉に出して言うたりすることになってくる。これではおかげは受けられんのということなんです。ね 今月今日でたのめ、一心にたのめばおかげは和賀心にあっるともうはっきり教祖様はおっしゃっておられる。おかげは和賀心にあり、だから腹たてちゃならん、腹たてちゃならんというて、その腹たちをですよ祓うだけではつまらん、おさえるだけじゃ、自分でその腹たち、そのことよりも一段と大きゅうならにゃいかん、それでなきゃいかん ね そしてはいがって私はあんくらいな奴というあんくらいなや奴と自分が勝負しておる自分を発見してです、なら自分もやっぱあんくらいな奴というだけとおんなじこんくらいな奴ということを、自分でわからなきゃいかんということなんです。ね 私はそういうようなふうなですね、たとえば人物というのが、そういうようなとこ、そのことだけでも、ほんとに自分が成長しおかげをいただかなければ、今日あ私が言うです、いうにふさわしいおかげというものが現れてはこないという。私どもでも十何年間、随分な非難を受けてきた。
ね そういう中にあった。けれども私自身がですね、問題にいたしましても、すぐ問題じゃなくなってくるんです。私の場合は。ね いわゆる、その まあいうなら、決してあんくらいな奴というふうに思わん、いわゆるそのたんびんに私は向上していきよる。ね そこに なら まあそれにふさわしい、ここの場合は特別、これだけ信心がでけておるから、こうじゃないとこれは私は思いますけれども まあ いうならばその信心にいうならふさわしい、いわば、おかげをこうやって見せてくださっておられる。これがなら御広前だけのことではない、お宮だけのことではない。ね たとえばそれは庭でありましても同じことが言える。庭も今はでけんにいたしましても、もうそれが出来れる準備が、私、昨日高山さんのお届けをさしていただいてから「ははぁ やっぱ本格的な本式なこの庭にふさわしい庭がでけるためのいわゆるそれでもあるな」と言ったようなことを私は感じたんです。なるほどあわてんでよい、よいなーということを感じるんでございます。なら、みなさんのおかげでもです、そのこいがだんだんできていきよればです、「ははぁそのため2年遅れ、3年遅れはそりゃありましても、そりゃ自分のこころの中にです、このくらいに自分がおかげいただいていきよる、このくらいに自分がありがとうなっている、このくらいに汚いところが目につくようになって、美しゅうなることに精進さしていただいておるということであればです、必ずそれにふさわしいおかげがあなたにも周囲にも内にも現れてくることを私は確信する。ですからね、どうでもあなた方が一生懸命精進しておられるその信心にふさわしいおかげを頂いてもらわなければならん。そして分からしていただくこと、それはみなさんのそういう願いということはそのまま神様の願いでもあったということがわかる。そして神様が そこに現れておいでになる、場が生まれてくる。ね いわゆる、いうなら合楽である。神様のそこに神様の例えばありがたいとかすばらしいとかというそういうものがそこに形になって現れてくるときです、わたくしどもは神様を御現しをすことが出来る。そこにはまた神様が私どもを現してくださるおかげをいただける訳になるのでございますから、ね どうでも信心さして頂いておる値打ちというものをです、私は本気で作らしていただくおかげをいただかなきゃならんと思うのです。どうぞ。